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自分が子供の頃、昔は紙は劣化するものと思っていました。古本屋にあった本が変色していても当たり前だと思っていましたし、図書館の本でも色が黄ばんでいてもそんなものだと思っていました。
しなやかさがなくなって黄ばんでボロボロになったカレンダーなんかもよく見かけました。
そういえば田舎の親戚の家に貼ってある電車やバスの時刻表なんかはいつのまにやら黄色くなって、画びょうのところなんかは錆びていたのか茶色くなっていたように思います。
そんな感じで昔の紙はだいたい劣化していたものでした。
その後1980年代に日本でも紙の劣化が問題視されるようになり、酸性紙から中性紙への転換が進んだのだそうです。
ではすべての紙が中性紙になったかというとそうでもなく、依然として酸性紙は製造され販売されています。
ノートやコピー用紙は中性紙化が進んでいますが、包装用紙や漫画雑誌、週刊誌などはまだまだ酸性紙が残っているのです。
ところで酸性紙はなぜ劣化するのでしょうか?
その原因は酸性紙に含まれる「硫酸バンド(正式名称:硫酸アルミニウム、化学式:Al2(SO4)3」という物質にあります。
紙に含まれる硫酸バンドが水分と反応して硫酸を生成するので紙が酸性になるのですが、この硫酸が紙の主成分であるセルロースを分解し、また紙から水分を脱水するので固くもろくなるというわけです。
そして紙に機械パルプが配合されている場合、リグニンが含まれるのでさらに劣化が進みやすくなります。
このように紙に含まれる硫酸バンドが紙を劣化させるのですが、ではなぜ硫酸バンドが使われているのでしょうか?
酸性紙での硫酸バンドの役割
酸性紙というのは硫酸バンドが使われている紙が酸性を示すから酸性紙というわけですが、硫酸バンドの役割は何なんでしょうか?
ここでは硫酸バンドは「定着剤」ということになります。
何を紙に定着させているのかというと「サイズ剤」と呼ばれるものです。
サイズ剤というのは、たとえば紙に万年筆で文字を書いた時にインクがにじまないようにするための薬品のことです。
もしもサイズ剤が入ってない紙(たとえば書道で使う半紙なんかをイメージしてもらえれば分かりやすいと思いますが)に万年筆や水性ペンで書いても滲んでしまうというわけですね。
このサイズ剤というのは筆記や印刷において重要な役割があり、ほとんどの紙に入っているので硫酸バンドも使われているわけです。
酸性紙から中性紙へ
日本の昔からある和紙はそもそも「サイズ」の概念がありませんからにじみ防止のための薬品は添加されていません。
ですから硫酸バンドも使用されていないわけで、千年前の和紙が今でも残っているのは硫酸バンドを使用していないからなんだそうです。
しかし明治以降西洋文明とともに洋紙の技術が導入されたときの紙は硫酸バンドが使われる酸性紙でした。
その後紙の劣化が問題になったわけですが、中性紙への技術転換は容易ではなかったようです。
まず、従来酸性紙で使用していたロジン系サイズ剤(松ヤニを原料とした薬品)に代わり、硫酸バンドが無くても紙に定着してくれる中性紙で使用できるサイズ剤が必要でした。
現在はAKD(アルキルケテンダイマー)と呼ばれるサイズ剤がよく使われていると思いますが、自分が中性抄紙に関わった頃のAKDは反応性が高く温度管理など結構取り扱いに注意しないといけない薬品でした。
また中性抄紙初期の頃は、中性抄紙にするための薬品がリグニンのようなアニオン系(マイナスイオンを持っている)の物質を嫌うということで使用されるパルプもリグニンが含まれていない化学パルプ(晒クラフトパルプ)でなければ上手く行かないという問題がありました。
自分が会社をやめる頃でも中性抄紙化がうまく行ったのは、白い紙(上質紙やコート原紙)だったと思います。
その後新聞用紙や段ボール原紙なども中性紙化されたようですが、包装紙や中質紙、更紙なんかはまだまだ酸性紙のものも残っているようです。
酸性紙が残っている理由
ここからは元製紙会社社員の本音をお話させてください。
なぜ劣化するのが分かっている酸性紙がまだ残っているのか?
本音を言うと中性紙にするのはコストが高くなるから嫌だということです。
それは薬品費が高くなるというのもありますが、抄紙の管理が面倒と言うのもあります。
酸性抄紙の場合、何か問題が起こったらとりあえず硫酸バンドをもっと添加しようというような対応をしていました。
かなり乱暴な管理だとは思いますが現場では「硫酸バンドは魔法の水」とか言ってた人もいたくらいです。
実際そうやってトラブルが収まることも多かったみたいなんですね。
ところが中性抄紙にするとなると「中性」と言うくらいですからPHの管理(実際には電気伝導度を管理していたと思います)をしないといけないわけです。
酸性抄紙のように調子が悪いからとりあえず硫酸バンド入れてみよう、というような大雑把な事はできない。
酸性紙から中性紙に変更するメリットなんて現場サイドからするとなんにもないわけです。
コストは上がるし操業でややこしいことが増えるばかりですから。
それでも上質紙やコート紙は品質的な問題から中性紙化は進みました。
化学パルプ100%で抄造する上質紙やコート紙はリグニンがありませんから、アニオントラッシュといわれる中性抄紙を邪魔する物質が抄紙系内にあまりないのでやりやすかったというのもあります。
それとコート紙の場合は塗料に使われている炭酸カルシウムを有効利用したいというのもありました。
炭酸カルシウムは酸性にすると分解してしまうので酸性抄紙では再利用出来なかったんですね。
そんなやりやすいはずの上質紙やコート紙でも酸性抄紙から中性抄紙に変更する時は相当苦労していたと思います。
これまでのトラブルシューティングが使えないわけですから現場の操業員は随分戸惑ったんじゃないでしょうか。
その後技術も開発され中性抄紙もやりやすくなって新聞用紙や段ボール原紙まで中性抄紙化が進んだようです。
新聞用紙の場合は古紙配合率が上がり古紙に含有されている炭酸カルシウムを有効利用したいということで中性抄紙化が進んだみたいですね。
段ボール原紙の場合はほとんど古紙ですから古紙の原料に塗工紙が増えてやはり炭酸カルシウムを有効利用したいというのがあったんじゃないかと思います。
段ボール原紙(ライナー)の中性抄紙化では、歩留まりが向上し内部強度も上がり品質的には随分改善されたと思います。ただし薬品費が大変なことになったのでその後コストダウンと言う改悪をされていたようですが。
しかしながら、包装用紙や更紙や中質紙はまだ酸性紙が残っていると思います。
包装用紙の場合は特殊な機能紙では中性化されていますが一般的なクラフト紙ではやる意味がないわけです。
包装紙は通常古紙はほとんど配合されませんし何十年も持つ必要もないわけですから。
更紙や中質紙の場合は機械パルプ配合率が多いので中性抄紙化がやりにくいし、古紙配合率も新聞紙やライナーよりは少ないわけで、炭酸カルシウムの有効活用という考えもあまりないんだろうと思います。
更紙や中質紙の場合は機械パルプが配合されていてリグニンが多く含まれているので酸性だろうが中性だろうが劣化してしまうという問題もあるんですね。
元製紙会社の技術者としては、こういうことはケースバイケースで対応しないといけなくてなんでも一律に決めればいいと言うもんじゃない、というのが本音です。